戦わずして勝つ
- 2018/02/23
- 01:38
吾輩は子供の頃から、武道、武術をやっているが・・・
実に愚かな時期だ・・・といっても、つい5年くらい前まではここから抜け出せなかったのも恥ずべき事実(汗)
ただし、数え切れないくらい、そういう愚かなことはやったが、一度も相手を病院送りにしたり、自分自身がそうなったりしたことはない。(組み手稽古では、大小含め、何度も病院送りにされたが・・・笑)
・・・いちおう言い訳。
余談になるが、仏教などでは、この段階に留まったまま死を迎えると、あの世の行く先は、死んでも死んでも闘争を続ける「修羅界」だそうな。
吾輩自身は、本当に生死をかけた戦いは経験したことないし、やりたくもない。
ときに「俺は命のやりとりをする実戦を経験している。そういう経験がない奴らは所詮は武術ごっこだ」と自慢気に語る人がいる。
しかし、吾輩から言わせたら、戦国時代や太平洋戦争中なら仕方がないが、この平和な時代に、望んでそういう場に身を置く必要はないことであって、そんな話は、恥であって自慢でもなんでもない・・・と思う。
大切な家族を守るために生死をかけて戦い、その空しさや辛さを知っている人は、決して口外せず、ましてや自慢気に語ることなどしない。
少なくとも、今は亡き吾輩の恩師はそうだった。
まあ、そういうことを自慢にしているようなお方は、殺しあいが大好きで、この世でそういう低次元の段階を抜け出せないのだから、あの世の行く先は「修羅界」確定だろうな。
吾輩はまだ死んでないので、本当にそんな世界があるかどうかはよう知らんが・・・(笑)
なお、誤解があるといけないので追記・・・
吾輩は、この【初期ステージ】を否定しているわけではなく、この上の段階に行くためには、この【初期ステージ】を通過する(経験する)ことが必須だと思う。
自分自身が殴られて痛い思いをするから、相手の痛みもわかるし、傷つけることの空しさにも気づくことができる。
こういう段階を経ず、ただ頭でっかちの概念だけで「武力や暴力はダメ」と言うのは簡単であるが・・・
それは、たとえるなら、「自分の街にゴミ処理場ができるのは反対だけど、よその場所だったらば不問」というのと大差ない。
そういう人の多くは、「暴力反対」「武力はいらない」と叫びながら、本当に自分に火の粉が降りかかってきたときには、武力に頼り、武力を否定することはしないと思う。
【第二ステージ】・・・自分も相手も傷つけずに事を収めたい
社会的に迷惑をかけるような輩「社会悪」を見過ごすわけにはいかない。
しかし、相手を傷つけることはしたくないし、自分も傷つけられなくない。
そのためには、相手との間に相当なレベル差が必要で、高い技量がないとそんなことは不可能だ。
喩えるならば、相撲取りが幼稚園児が必死に向かってきても、笑いながらいなすことができるくらいの力量差だ(笑)
しかし、そのためには、対人の組手稽古などが必要であり、それなくして力量や進捗度を測ることはできない。
だから、日々の一人稽古や同門との対人稽古による鍛錬のほかに、あちこちの組み手交流会には参加して、手練れの方々の胸をお借りしているのだ。
ネット上に「誰も私に触れることはできない。触れずに倒す」という、かなりイタいファンタジーな方も多々おられるが、それはそれで人様に迷惑をかけないかぎりそっとしておいてあげればエエんじゃないかと思う。
「クラシック音楽が好き」でも「ジャズが好き」でも・・・どっちでも好きな音楽を聴けばいいんじゃない・・・というのと同じだ。
かくして、現在は、少しでも今より高い技量を追求しているわけだが・・・
実は、これも結論から言ってしまうと、限界がない。
どれだけ技量が上がっても、対する相手は「上には上がいる」
そうである限り、どこまで追求してもキリがない。
最後は、クマやライオンと戦って、双方傷つかない・・・という漫画のような話になってしまうだろう。
しかし、これも【初期ステージ】が無駄ではないように、重要なステップだと思う。
自分自身がこれまで出来なかったことが出来るようになる。
前よりも自由に動けるようになる。
50歳を超えても、なおまだ進化できる。
武術の追求は、いわばライフワークのようなものであり、楽しみである。
理屈抜きに単純に、面白いから、勝ち負けはさておき、自分自身の能力向上のために武術を追求しているわけだ。
これが現在の吾輩のポジション。
組み手などで交流相手から学ぶことはあっても、一本取られたからと言って、憎悪の念を抱くことはなく、あるのは、教えていただいたことに対する感謝の念のみだ。
だから、好敵手は大歓迎だが、一時の勝負で勝った負けたとか、「どっちが強い」とか「どちらの流派が優れている」とか・・・そういうことには、まったくもって興味がない。
興味があるのは、自分自身の進化だけだ。
自分自身が出来なかったことに対しては、自分に対し腹立たしく思うことはあっても、他人から「あいつは大したことない」とバカにされても、別に怒る気はしない。
事実、そのとおり「たいしたことない」からだ。
【最終ステージ】・・・戦わずして勝つ
「戦わずして勝つ」というと、一般的には戦略とか戦術で勝つこと・・・・という解釈が多い。
しかし、吾輩的には、この意味はそんな表面的なことではなく、もっと深い解釈があるように思う。
つまり、戦う相手がいなければ、そもそも戦うこともないということだ。
この中にもさらに段階があると思う。
★(第一段階) 戦いをしなければならないような場に身をおかない。
★(最終段階) 敵(そのもの)をつくらない
(第一段階)戦いをしなければならないような場に身をおかない。
いわゆる「君子危うきに近寄らず」という奴だ。
極端な話、他人との接触を断ち、一人山に籠もる生活を送れば、生涯、戦う場面はないだろう。
しかし、この段階はまだ「敵となる対象」「戦わなくてはならない対象」を想定しており、単に、戦う相手を回避しているだけともいえる。
したがって、根本的な意味においては、【第二ステージ】と大差ない。
(第二段階)敵(そのもの)をつくらない
これこそが、究極の理想だろう。
しかし、「殺人が良くないこと」だと学べるのは、「殺人を犯す役割」の人が存在するからだ。
「善」があるから「悪」を知ることができ、「悪」がなければ「善」を知ることはできない。
水戸黄門に悪役がいなかったらドラマは成立しない。
しかし、その黄門様一行の行いも、反対から見たら「おのれ~!」という事になる。
だから、「悪」を撲滅することはできないし、「悪」を撲滅しようという考え方自体が、角度を変えるとすでに「悪」・・・・・人生を学ぶ上でどちらも必要な存在。
太陽は善人にも悪人にも平等に光を与えているし、どちらにも空気を吸わせている。
それが、自然の法則だとすれば・・・
吾輩如きが、他人のことを「許す」とか「許さない」とかの判断をするのは烏滸がましいことであり・・・ましてや、そういう対象を敵視し、「お灸を据えてやろう」などと考えるのは、もってのほかだろう。
「許さない」対象を求めるのであれば、それは外部ではなく自分自身の狭い考え方に求めるべきだろう。
すべてを認める。
善も悪も、自分の価値観と違う考え方も、一切がっさい全てを分け隔てることなく認めることができたならば・・・・・もはや戦う相手は存在しなくなるのではないかと思う。
というよりも、「目の前の現象は自分の心の写し」という説を採用するならば・・・戦う相手が存在するのは、吾輩自身の心が荒んでいる(穏やかでない)から、そういう人を呼び込んでいる・・・ということになるのかもしれない。
つまり、根本原因は自分自身。
そうだとしたら、本当にそんな境地に辿り着くことができた日には、今「社会悪」だと思っている輩すら、吾輩の目の前に存在しなくなるのかもしれない。
これは、不埒な輩に限らず、身近にいる伴侶(つまりカミサン)や親兄弟、友人知人、社会全般・・・その全ての人に対し、認め、尊重するということができれば、常に穏やかでいられ、調和がとれるのではないかということにもつながる。
最近、自分自身の過去を反省し、つくづくそう思う。
こういう突拍子もない話をしたときに
「バカじゃねーの?そんなの理想論であって、そんなことあるはずないじゃないか!」と言われたとしても、腹を立てずにその人の考え方も尊重し、認めるということだ。
世の中が、相対である限り、自分と反対の考え方は必ず存在するのだから・・・
とはいえ・・・
これは、あくまでも究極の理想であり、現時点での吾輩は、そんな境地からはほど遠いところを彷徨っている(笑)
カミサンにも「あんた、いいこと言ってるんだけど、行動が伴ってないのよね~」と皮肉られる(笑)・・・図星だ。
しかし、もしも、本当にそういう境地に至れたならば、もはや武術など不要だろうし、戦う以前に戦う対象自体がなくなるのかもしれない。
だから、武術の上達以上に難しいだろうが、日頃からその境地を目指したい。
武道の「心・技・体」でいう「心」の部分であり、武道がなぜ、「技」や「体」の前に「心」を置いているかの答えも、このあたりにあるのかもしれない。
武術が平和を守るための手段ならば・・・
その目的意識も随分と変わってきたように思う。
【初期ステージ】・・・強くなりたい
【第二ステージ】・・・自分も相手も傷つけずに事を収めたい(今このあたり)
【初期ステージ】・・・強くなりたい
【第二ステージ】・・・自分も相手も傷つけずに事を収めたい(今このあたり)
【最終ステージ】・・・戦わずして勝つ(究極の理想)
【初期ステージ】・・・強くなりたい
「喧嘩で負けたくないから、強くなりたい!」・・・それだけ(笑)
試合で勝ちたいから、苦しい稽古をするというのも、突き詰めると「負けたくない」という理由からだ。
この段階では、自分が相手に勝つために、いかに突きや蹴りの威力を増し、相手を倒すかに専念していた。
学生時代は、ウェイトトレーニングやってパワーと質量を増やし、走り込んでスタミナつけたり、スピードをつけたりに情熱を燃やした。
『一撃必殺』を目標にして、一発で相手が倒れると満足していたわけだが・・・
見方を変えれば・・・
【初期ステージ】・・・強くなりたい
「喧嘩で負けたくないから、強くなりたい!」・・・それだけ(笑)
試合で勝ちたいから、苦しい稽古をするというのも、突き詰めると「負けたくない」という理由からだ。
この段階では、自分が相手に勝つために、いかに突きや蹴りの威力を増し、相手を倒すかに専念していた。
学生時代は、ウェイトトレーニングやってパワーと質量を増やし、走り込んでスタミナつけたり、スピードをつけたりに情熱を燃やした。
『一撃必殺』を目標にして、一発で相手が倒れると満足していたわけだが・・・
見方を変えれば・・・
相手を傷つけることで自分のレベルアップを検証していたわけだから、人間としては実に低次元でヒドイ話だ。
自分の実力を試したくて、街で気にくわない(社会的に迷惑をかけるような)輩を見つけては、「注意する」という大義名分のもと、実は対戦できることを期待して挑発していたのもこの【初期ステージ】の頃。
自分の実力を試したくて、街で気にくわない(社会的に迷惑をかけるような)輩を見つけては、「注意する」という大義名分のもと、実は対戦できることを期待して挑発していたのもこの【初期ステージ】の頃。
実に愚かな時期だ・・・といっても、つい5年くらい前まではここから抜け出せなかったのも恥ずべき事実(汗)
ただし、数え切れないくらい、そういう愚かなことはやったが、一度も相手を病院送りにしたり、自分自身がそうなったりしたことはない。(組み手稽古では、大小含め、何度も病院送りにされたが・・・笑)
・・・いちおう言い訳。
余談になるが、仏教などでは、この段階に留まったまま死を迎えると、あの世の行く先は、死んでも死んでも闘争を続ける「修羅界」だそうな。
吾輩自身は、本当に生死をかけた戦いは経験したことないし、やりたくもない。
ときに「俺は命のやりとりをする実戦を経験している。そういう経験がない奴らは所詮は武術ごっこだ」と自慢気に語る人がいる。
しかし、吾輩から言わせたら、戦国時代や太平洋戦争中なら仕方がないが、この平和な時代に、望んでそういう場に身を置く必要はないことであって、そんな話は、恥であって自慢でもなんでもない・・・と思う。
大切な家族を守るために生死をかけて戦い、その空しさや辛さを知っている人は、決して口外せず、ましてや自慢気に語ることなどしない。
少なくとも、今は亡き吾輩の恩師はそうだった。
まあ、そういうことを自慢にしているようなお方は、殺しあいが大好きで、この世でそういう低次元の段階を抜け出せないのだから、あの世の行く先は「修羅界」確定だろうな。
吾輩はまだ死んでないので、本当にそんな世界があるかどうかはよう知らんが・・・(笑)
なお、誤解があるといけないので追記・・・
吾輩は、この【初期ステージ】を否定しているわけではなく、この上の段階に行くためには、この【初期ステージ】を通過する(経験する)ことが必須だと思う。
自分自身が殴られて痛い思いをするから、相手の痛みもわかるし、傷つけることの空しさにも気づくことができる。
こういう段階を経ず、ただ頭でっかちの概念だけで「武力や暴力はダメ」と言うのは簡単であるが・・・
それは、たとえるなら、「自分の街にゴミ処理場ができるのは反対だけど、よその場所だったらば不問」というのと大差ない。
そういう人の多くは、「暴力反対」「武力はいらない」と叫びながら、本当に自分に火の粉が降りかかってきたときには、武力に頼り、武力を否定することはしないと思う。
【第二ステージ】・・・自分も相手も傷つけずに事を収めたい
社会的に迷惑をかけるような輩「社会悪」を見過ごすわけにはいかない。
しかし、相手を傷つけることはしたくないし、自分も傷つけられなくない。
そのためには、相手との間に相当なレベル差が必要で、高い技量がないとそんなことは不可能だ。
喩えるならば、相撲取りが幼稚園児が必死に向かってきても、笑いながらいなすことができるくらいの力量差だ(笑)
しかし、そのためには、対人の組手稽古などが必要であり、それなくして力量や進捗度を測ることはできない。
だから、日々の一人稽古や同門との対人稽古による鍛錬のほかに、あちこちの組み手交流会には参加して、手練れの方々の胸をお借りしているのだ。
ネット上に「誰も私に触れることはできない。触れずに倒す」という、かなりイタいファンタジーな方も多々おられるが、それはそれで人様に迷惑をかけないかぎりそっとしておいてあげればエエんじゃないかと思う。
「クラシック音楽が好き」でも「ジャズが好き」でも・・・どっちでも好きな音楽を聴けばいいんじゃない・・・というのと同じだ。
しかし、こと現実の話となると・・・対人の組手稽古やスパーリングなくして、そんな触れさせない神技的レベルに至ることは不可能だと思う。
少なくとも吾輩は対人稽古をしているが、未だ「傷つけず、傷つけられず」には、ほど遠いレベルでしかない。
少なくとも吾輩は対人稽古をしているが、未だ「傷つけず、傷つけられず」には、ほど遠いレベルでしかない。
かくして、現在は、少しでも今より高い技量を追求しているわけだが・・・
実は、これも結論から言ってしまうと、限界がない。
どれだけ技量が上がっても、対する相手は「上には上がいる」
そうである限り、どこまで追求してもキリがない。
最後は、クマやライオンと戦って、双方傷つかない・・・という漫画のような話になってしまうだろう。
しかし、これも【初期ステージ】が無駄ではないように、重要なステップだと思う。
自分自身がこれまで出来なかったことが出来るようになる。
前よりも自由に動けるようになる。
50歳を超えても、なおまだ進化できる。
武術の追求は、いわばライフワークのようなものであり、楽しみである。
理屈抜きに単純に、面白いから、勝ち負けはさておき、自分自身の能力向上のために武術を追求しているわけだ。
これが現在の吾輩のポジション。
組み手などで交流相手から学ぶことはあっても、一本取られたからと言って、憎悪の念を抱くことはなく、あるのは、教えていただいたことに対する感謝の念のみだ。
だから、好敵手は大歓迎だが、一時の勝負で勝った負けたとか、「どっちが強い」とか「どちらの流派が優れている」とか・・・そういうことには、まったくもって興味がない。
興味があるのは、自分自身の進化だけだ。
自分自身が出来なかったことに対しては、自分に対し腹立たしく思うことはあっても、他人から「あいつは大したことない」とバカにされても、別に怒る気はしない。
事実、そのとおり「たいしたことない」からだ。
【最終ステージ】・・・戦わずして勝つ
「戦わずして勝つ」というと、一般的には戦略とか戦術で勝つこと・・・・という解釈が多い。
しかし、吾輩的には、この意味はそんな表面的なことではなく、もっと深い解釈があるように思う。
つまり、戦う相手がいなければ、そもそも戦うこともないということだ。
この中にもさらに段階があると思う。
★(第一段階) 戦いをしなければならないような場に身をおかない。
★(最終段階) 敵(そのもの)をつくらない
(第一段階)戦いをしなければならないような場に身をおかない。
いわゆる「君子危うきに近寄らず」という奴だ。
極端な話、他人との接触を断ち、一人山に籠もる生活を送れば、生涯、戦う場面はないだろう。
しかし、この段階はまだ「敵となる対象」「戦わなくてはならない対象」を想定しており、単に、戦う相手を回避しているだけともいえる。
したがって、根本的な意味においては、【第二ステージ】と大差ない。
(第二段階)敵(そのもの)をつくらない
これこそが、究極の理想だろう。
「社会的に迷惑をかけるような輩を見過ごすわけにはいかない」と前述したが、果たして、それは本当に社会的に迷惑なことなのか?
吾輩は、ルール違反やマナー違反が許せなかったが、自分はまったくそういうことをしたことがないのか?・・・・いっぱいやっている(汗)
そもそも、ルールというのは、何なのか?
この世に、絶対的な「善」とか「悪」は存在するのか?
ところ変われば価値観も変わる。
価値観がかわればルールも変わり、「是非」も変わる。
吾輩は、ルール違反やマナー違反が許せなかったが、自分はまったくそういうことをしたことがないのか?・・・・いっぱいやっている(汗)
そもそも、ルールというのは、何なのか?
この世に、絶対的な「善」とか「悪」は存在するのか?
ところ変われば価値観も変わる。
価値観がかわればルールも変わり、「是非」も変わる。
これまで吾輩が『正義』と思ってとってきた一連の行動は、善悪ではなく、吾輩自身が、そういう行為をする人が嫌いだから、気にくわなかったからというのが主たる理由ではないのか?
要するに、自分の価値観と違う者を認めていなかったということだ。
「じゃあ、殺人者はどうなんだ?」という疑問が湧いてくる。
当然、人が人を殺すことが良いわけはない。
江戸時代には「仇討ち」が公認だったけれど、今は認められることはない。
それだけ、進歩しているということだ。
-----------------------
要するに、自分の価値観と違う者を認めていなかったということだ。
「じゃあ、殺人者はどうなんだ?」という疑問が湧いてくる。
当然、人が人を殺すことが良いわけはない。
江戸時代には「仇討ち」が公認だったけれど、今は認められることはない。
それだけ、進歩しているということだ。
-----------------------
しかし、「殺人が良くないこと」だと学べるのは、「殺人を犯す役割」の人が存在するからだ。
「善」があるから「悪」を知ることができ、「悪」がなければ「善」を知ることはできない。
水戸黄門に悪役がいなかったらドラマは成立しない。
しかし、その黄門様一行の行いも、反対から見たら「おのれ~!」という事になる。
だから、「悪」を撲滅することはできないし、「悪」を撲滅しようという考え方自体が、角度を変えるとすでに「悪」・・・・・人生を学ぶ上でどちらも必要な存在。
太陽は善人にも悪人にも平等に光を与えているし、どちらにも空気を吸わせている。
それが、自然の法則だとすれば・・・
吾輩如きが、他人のことを「許す」とか「許さない」とかの判断をするのは烏滸がましいことであり・・・ましてや、そういう対象を敵視し、「お灸を据えてやろう」などと考えるのは、もってのほかだろう。
「許さない」対象を求めるのであれば、それは外部ではなく自分自身の狭い考え方に求めるべきだろう。
すべてを認める。
善も悪も、自分の価値観と違う考え方も、一切がっさい全てを分け隔てることなく認めることができたならば・・・・・もはや戦う相手は存在しなくなるのではないかと思う。
というよりも、「目の前の現象は自分の心の写し」という説を採用するならば・・・戦う相手が存在するのは、吾輩自身の心が荒んでいる(穏やかでない)から、そういう人を呼び込んでいる・・・ということになるのかもしれない。
つまり、根本原因は自分自身。
そうだとしたら、本当にそんな境地に辿り着くことができた日には、今「社会悪」だと思っている輩すら、吾輩の目の前に存在しなくなるのかもしれない。
これは、不埒な輩に限らず、身近にいる伴侶(つまりカミサン)や親兄弟、友人知人、社会全般・・・その全ての人に対し、認め、尊重するということができれば、常に穏やかでいられ、調和がとれるのではないかということにもつながる。
最近、自分自身の過去を反省し、つくづくそう思う。
こういう突拍子もない話をしたときに
「バカじゃねーの?そんなの理想論であって、そんなことあるはずないじゃないか!」と言われたとしても、腹を立てずにその人の考え方も尊重し、認めるということだ。
世の中が、相対である限り、自分と反対の考え方は必ず存在するのだから・・・
とはいえ・・・
これは、あくまでも究極の理想であり、現時点での吾輩は、そんな境地からはほど遠いところを彷徨っている(笑)
カミサンにも「あんた、いいこと言ってるんだけど、行動が伴ってないのよね~」と皮肉られる(笑)・・・図星だ。
しかし、もしも、本当にそういう境地に至れたならば、もはや武術など不要だろうし、戦う以前に戦う対象自体がなくなるのかもしれない。
だから、武術の上達以上に難しいだろうが、日頃からその境地を目指したい。
武道の「心・技・体」でいう「心」の部分であり、武道がなぜ、「技」や「体」の前に「心」を置いているかの答えも、このあたりにあるのかもしれない。
武術が平和を守るための手段ならば・・・
「平和」は、全て自分自身の心の中に委ねられている。
そんな気がする。
長文、最後までご購読に感謝!(^_^)
そんな気がする。
長文、最後までご購読に感謝!(^_^)
スポンサーサイト